コザについて熱く語る

お世話になっております。

沖縄で中古不動産を扱っている株式会社イエカリヤの西島です。

西島
西島
宅建試験勉強中です、事務や物件撮影をやっています。プロフィールはコチラ

 

 

本日、代表の當間より指令を受けました。

 

『コザについて書いてください。

なんなら、三山時代まで遡っても大丈夫です。』

 

さささささっ、さんざん!?

なので今日は沖縄市生まれ、沖縄市育ちの私が

三山時代まで遡ったり遡らなかったりしながら熱く語ります

沖縄市のコザについて!!!!

 

 

いきなりですが、沖縄市といえばコザじゃないでしょうか。

しかし、コザ市と呼ばれていたのは今から45年前まで。

それ以降、コザという地名はないのに、みんなコザ、コザというのはなぜなのか。

例えば、沖縄銀行コザ支店の住所は沖縄市園田。

ホームセンターさくもとコザ支店の住所は沖縄市南桃原。

コザ市であったころの面影って今でも根強く残っています。

 

そして、数年前友人に『沖縄市は怖いイメージ』といわれ、

学生時代には本土出身の先生から『沖縄市はスラム街』と言われたことを思い出しました。

 

そんなことなーーーーーーい!!!!

 

そんなイメージを払拭すべく、沖縄市のこれまでの歴史を振り返っていきたいと思います!

 

コザ市って?

1956年にコザ市となりました。もとはコザ村、その前は越来村という戦前までは農村地域でした。

しかし1946年終戦後、それまで畑であった場所に嘉手納飛行場など建設されていき、ここから時代の変遷へと突入していきます。

 

コザ十字路市場

それから、米軍兵向けの商売が活性化していきます。

現在、コザ十字路の銀天街は”照屋”と呼ばれる地域にあります。

1950年頃より米兵向けの水商売が始まり、その翌年に有志数名が田んぼを埋め立て、

そこで日用雑貨や衣類を売り始めたのがコザ十字路市場の始まりです。

さらに翌年は映画館が2つ建ち、さらなる賑わいを見せます。

これが『照屋黒人街』成り立ちです。(白人街の話はまた後程)

また飲食店や土産物のほかに風俗店も盛んで、沖縄戦により働き手を失った女性たちが、

家族を養うために働く場所でもありました。

当時、30件もの風俗営業があったとされています。

良くも悪くも経済を回していたのは紛れもなく米兵の使うドルや※B円でした。

よく聞く話が、ベトナム戦争に行く兵隊さんがチップを多くくれたというものです。

当時、日本は戦争を終えたとはいえ、まだまだ身近に戦争を感じる時代でした。

※B円・・・1945年から1958年まで法定通貨として、沖縄でのみ使われたお金。米軍が発行していた。

 

 

コザ・ロック

沖縄市中央にあるミュージックタウン。『音楽の街』をモットーに建設されました。

その音楽の街という発想はどこから来たのか。

コザからはかっちゃん民謡歌手の登川誠仁さん、ネーネーズを輩出しています。

これもまた、米軍統治下時代のアメリカ音楽の影響を受けているといっても過言ではありません。

登川誠仁さんの曲に沖縄数え歌というものがあり、その歌詞が戦後の沖縄を表しているようです。

個人的には登川誠仁さんが補助詞をされている十九の春も好きです。

 

 

さて、今日はここまで。(思ってる以上に長くなった汗)

次回はオフリミッツやAサイン、白人街についてまとめたいと思います。

ここまでお付き合いいただきありがとうございます。しーゆー(‘ω’)ノシ

 

 

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